ディズニープリンセスを線で考える

ディズニープリンセスを過去作品から考えて考察していくのが主です。どっちかというと懐古厨なのかもしれせんが、どのプリンセスもやっぱり好きです。憧れはオーロラ姫です。

宗教観を打ち破った人魚姫

 前回、「クラシックプリンセス」は宗教的な意味合いを持っていたというお話をしましたが、改めて読み返し、それを最初に打ち破ったのはアリエルだったなぁと思いました。

 アリエルの原作は「人魚姫」。アンデルセンの童話です。

 グリムやペローは既存の伝承を文章化しただけですから、「白雪姫」などは大元の作者は不明であり、ディズニーでなくても様々な「ディズニー版シナリオ」の絵本などがあり、大元の童話を知らない方も結構います。

 逆に「リトルマーメイド」の原作はいまでもアンデルセンの「人魚姫」として本屋に売ってますので、その違いを知ってる方は多くなってくるでしょう。


 アンデルセンの人魚姫は最後に泡となり、その後天使となって長い時間を過ごす……というラストですが、これは「宗教的」に仕方がないのです。ウォルトだったら人魚姫をどう改定させていたのか、と気になるところです。現代人だったら気付かないけれど、信心深い人なら「人魚が人間になること」はタブーだからハッピーエンドにするのも気が引けて、ウォルトが人魚姫を元に映画を作らなかったのもそうなのかなとか思いますね。(私の想像です。)



①我々の姿は神から授かったものである

 フランケンシュタインはホラーとして有名だけど、本当は罪深い話で「人間が人間を創造しても良いのか?」というテーマで話が進んでいきます。そのタブーを犯して主人公が転落するのがホラーっちゃホラーなんですけどね。でも科学が進歩してウハウハしてる人間達に警鐘を鳴らしたかったんだろうなと思います。

 人魚姫もホラーにしようと思えば出来る題材で、例えば魔法で人間にするシーンを手術によって変えるみたいな、「妖しく美しいホラー」に改変している映画もあります。

 監督の改変次第で物悲しい化物の奇譚になりかねないのがアンデルセンの「人魚姫」です。


 それは「人魚姫」が創造主、つまり神に背いて、我儘に自分の身体を人間に作り変えてしまう物語だからです。

 単純にアリエルは人間世界の文化に憧れているのですが、人魚姫は人間の身体そのものに憧れ、自分が人間であることを嘆いています。

 つまり、神様が下さった人魚の身体に不満を持つのが人魚姫で、彼女には天罰が下るのです。

  パートオブユアワールドでアリエルは確かに人間の足に憧れているようですが、このシーンは我々人間が「鳥の羽あったら飛べるよねー」程度の願望を表してるに過ぎないのです。

 アースラのところに来てやっと「自分が人間になる」という発想をしていますし、ちょっと悩んで「父や姉に会えない」と言っています。アリエルが人間になりたいという気持ちに背中を押したのはエリックに会いたいという願望です。

 人魚姫も確かに人間の王子に恋をしていたのですが、彼女の場合は常日頃から人間になりたいと願っており、そこにさらに人間に恋をして「姿を造り替えよう」という決心に繋がるのでアリエルとは発想の順序が逆なんです。

 人魚姫は「神の与えてくれた姿」に不満を抱き、さらには「恋愛」という自分のエゴを皮切りに禁断を実行に移してしまうというタブーだらけの童話ともとれます。彼女の最初の代償が結構エグくて、「声」だけじゃなくて「歩くたびに激しい激痛」を伴うという代償もあります。神様がくれた完全な姿でなく、よく分からない呪い師が勝手に作り替えただけなので人間として不完全なのは仕方がないことなのです。


アンデルセン罪と罰

 アンデルセン童話は作者自らの境遇をファンタジーに落とし込んでいるところが多いです。「人魚姫」の場合は人魚姫自身はアンデルセン本人を表している、というのが通説です。

 貧乏だったアンデルセンは上流階級に憧れていました。アンデルセンは海の底で生きる人魚から、陸の上を歩く人間に憧れていたのです。そこには純粋な気持ちだけでなく、富や名声と言った自分のエゴがここまで自分を押し上げてきたという後ろめたい気持ちがあったのでしょう。

 「声」を失ったのは自分の本音、「歩くたびに足が痛む」のは本当の上流階級のように振る舞え無い肩身の狭さから来ているのでしょう。

 ウォルトディズニーが童話を使って夢を語ったのに対して、アンデルセンは童話を使って罪を告白しているのです。

それでも「人魚姫」の原作では彼女は死後、空気の精霊となり永い年月を天使とともに過ごすというハッピーエンドにはなっています。でも彼女の本来の望みは叶っていないし最終的には死んでしまっているわけですから、私たちにはちょっと腑に落ちないエンドですよね。

 そこで宗教的なタブーを全く感じさせない、明るい話に作り変え、自罰的なアンデルセンの物語と180度違う物語にしました。


 ③「リトルマーメイド」の神

 でもリトルマーメイドにも神がいるんです。キリスト教的な厳格なルールで出来た原作ですが、リトルマーメイドにはすこし違う役割を持たされた神が出てきます。

 それはギリシャ神話を彷彿とさせる風貌をしたトリトンです。

 彼は人魚達を統べるという点でそのままの意味で海の神様であります。

 しかし、作品として重要なのはアリエルや姉たちの神的な存在であることです。暖かく包容力のある性格(母性)というより厳格で我々を見守る性格(父性)を持たされたトリトンはアリエルの家庭でも神のような存在です。しかし、アリエルが従わなければならないのは子供の間だけで、大人になりいつかはトリトンの元を離れなければなりません。

 「パートオブユアワールド」の歌詞には


Bright young woman sick of swimming ready to stand


という歌詞があり、和訳では「私は子供じゃないのよ」と割と意味が省かれてしまっていますが、「海で泳ぐのに飽き飽きした若い女は立ち上がる準備ができてる」という直訳(センスがない)ですね。最後のstand ダブルミーニングで、文字通り二本足で立つという意味と自立という意味が含まれているのです。


 トリトンはいつまでも自分が神でいるというつもりでいた(おそらく心のどこかでアリエル自身もそれを認めていた)のですが作中の最後で哀しみつつも人魚のアリエルに美しいドレスと足をプレゼントしたのは重要な意味を持っていたのです。リトルマーメイドにおけるアリエルの足は神が自らアリエルに贈った物です。ですから契約などはなく、無償の愛に満ちた完全な状態で彼女は再び陸地に降り立ち、エリックと結ばれたのです。

 アリエルの強い自立とそれを心から祝福してくれる親という、父娘の物語になったのです。


「やっぱり恋愛で女を幸せにするんかい!」「しかも父ちゃんや王子(男)が活躍しとるやん!」という批判があったそうなんですが、リトルマーメイドの核心はそういうことじゃなくて、「ヴァージンロードを歩く父ちゃんの不思議な感情」見たいなところにあるんじゃないかなぁと大人になって見返すと強く思うんですよねぇ。

 子供の頃は子供の頃で人魚っていう特別感とか、エリックとのデートシーンとか可愛くて観てたんですけど、よく考えるとアースラっていう他人が「真実の愛などない!」って批判した二人をトリトンが無言で受け入れたところとか本当に感動します。

 アリエル(女の子)に焦点を当てて最初は観ると思うんですが、そのあとトリトン(おっちゃん)目線で観ると面白いですよ。