ディズニープリンセスを線で考える

ディズニープリンセスを過去作品から考えて考察していくのが主です。どっちかというと懐古厨なのかもしれせんが、どのプリンセスもやっぱり好きです。憧れはオーロラ姫です。

クラシックプリンセスは抑圧されていたのか?

幼少期は「白雪姫・シンデレラ・オーロラ・アリエル・ジャスミン・ベル」の六人がディズニープリンセスという風潮の元、育ってきました。

 

最近になって新しいプリンセスはもちろん、「ポカホンタスやムーランもプリンセスなのか……」と、どんどん増え続けるディズニープリンセスに研究分野を広げねばならないと思うオタクです。(たまにアリスも入ってるけど、プリンセスじゃないじゃん!逆にエロウィーとかももっと掘り下げないと、とかディズニープリンセスの基準が広がってて戸惑いを隠せません。 )

 

さて、ウォルト本人が生きていた頃の作品はディズニークラシックと呼ばれます。そこで、私は白雪姫、シンデレラ、オーロラの三人を「クラシックプリンセス」と呼んでいます。この呼称が一般的なのかどうか分かりませんが、分類分けすると分かりやすいですからね。

このクラシックプリンセス、最近では割と評価が低くなってると言いますか、タイトルにもあるように「抑圧されてる」とか「自我のない存在」と見なされて、「悪しき男尊女卑時代の女性像」として扱われることもしばしばあるんですね。

そこまで深読みされることはなくても「こんな女いねーよ!」と揶揄されること、そんなパロディとかギャグくらいだったら皆さんも見たことあるのではないでしょうか。

ファンとしては本当に彼女達は抑圧されてたのかなと思う部分があります。同じ女としてはクラシックプリンセスの方が憧れる部分も多く、必ずしも「男尊女卑の弊害」だとは思わないのでちょっと考えてみたいです。

 

ヴィランズの存在意義

ディズニープリンセスヴィランズは基本女性です。特に深い理由は無く、童話の原作が割と「魔女に呪われたプリンセス」率が高いからでしょうね。

「アラジン」や「美女と野獣」などプリンセス以外に主人公(美女と野獣は野獣が変わるため、制作的には野獣が主人公)がいると男もヴィランズになりがちですが、女性ヴィランズの方が多いです。最近のも含めるとバランスが崩れつつあるかもしれないけど。

クラシックプリンセスのヴィランズは継母、トレメイン夫人、マレフィセントです。

彼女達とプリンセスを比べてみましょう。

 

白雪姫 疑うことを知らない。無邪気なので皆から愛される。

継母 自分がどう見られているのか気になる。皆から恐れられる。自分自身も疑心暗鬼な部分がある。

 

シンデレラ 曲がったことが嫌い。権力に歯向かうこともある。そのため、クラシック以外の全てのプリンセスと比べても実は性格はキツいと評価されることもある。

トレメイン夫人 権力を振りかざし、それが非人道的でも自分の思惑通りにならなければ気が済まない。

 

オーロラ姫 美しさの象徴のようなニンフ的存在。妖精の祝福により、生まれつき皆から愛される。

マレフィセント 全ての悪の支配者。つまり悪事を働くことしかしないので憎まれる。

 

安易に「女の敵は女」に落とし込まず、クラシックプリンセスは基本的に「聖女と悪女」の戦いです。

ウォルト的にはディズニーは道徳的要素が入っている作品であることがこだわりの一つで、比較しやすい方が良いんですね。特にディズニープリンセスは清廉なキャラクターに仕立て、道徳的な話に持ってきた方が話のテーマが分かりやすいんです。

実はクラシックプリンセスは恋愛モノというよりも道徳のお話なんです。

 

善悪の勝負

「理想の女」というよりもはや「人間として出来過ぎてる」のがクラシックプリンセスです。

 

「女の戦い」とか「キャットファイト」にしないために「圧倒的心の純粋さ」対「圧倒的腐った性根」の構図になってるのがクラシックディズニーです。

男とか女とかそういう問題じゃ無くてもはやプリンセスという生き物なんです。

 

クラシック時代の作品は道徳観とかキリスト教的な善悪の物の見方が関わっくると思います。

キリスト教は赦しの宗教とも呼ばれ、あまり復讐とか好まないんですよね。罪を憎んで人を憎まずというやつです。

 

ヴィランズがどうなるのかと照らし合わせると

継母は自滅する。落雷という天罰が下った為、復讐による死ではない。

トレメイン夫人はお咎めなし。

マレフィセントは人間や生き物では無く、悪の擬人化。これは逆に倒さないといけないためフィリップに成敗される。

……と宗教的になってますね。ほぼ死んでますけど。

 

良き魂が悪しき魂を憎まず、悪は自滅する、みたいな話に運ばないと子供に見せられない……とウォルトがどの位思ってたかどうか分かりませんがプリンセスに関してはこの部分にかなり拘ってますね。

だからクラシックプリンセスの物語が予定調和に進んでいくのは、「女だから」というよりも神の思し召しによる部分が強く、自分の気高さ故に運命が変わるみたいな宗教的な意味合いが強いんです。

つまり「お天道様が見てるから正しく生きなさい」というメッセージです。

女だから動いてないとかじゃなくて、動じる必要がないんです。だってクラシックプリンセスは本当の意味で美しいから。

ジェンダー的な問題で「男の理想の女性像」を押し付けられた典型としてクラシックプリンセスを例にあげるのは若干違うんじゃないかなーと思います。そもそも男の恋愛対象としてではなく「正しい人間」として描いてますからね。

 

それでも抑圧されてると思うところ
最後に抑圧されてると書かざるを得ない所を書いておきます。

① もはや修道女的に善なる存在にならなきゃならない

② 彼女達の幸せは王子との結婚という固定観念

 

これですかね、①に関してはクラシックプリンセスになるための資格です。特に熱心な宗教徒でない限り現代の我々には難しい所です。ちょっと息苦しいですね。

あとは②ですかね。プリンセス作品の主な顧客は「小さい男の子と全年齢の女性」をターゲットにしています。小さい子供に対して「善悪」の価値観を持たせる作品として非常に素晴らしいと思いますが、全年齢の女性に向けて「女は結婚させときゃ幸せでしょ」というパターンにしちゃったのは安直かなぁと思わざるを得ないでしょう。

ただし、今だって結婚したい女の人もいるし、劇中のクラシックプリンセスは結婚してちゃんと幸せそうだし、ここに関してはこれからのディズニープリンセスがこの価値観を押し付けなければそんなでもないかなと思います。

そもそも言うほど「結婚が正義」という押し付けを感じませんし、その前に「自由恋愛は楽しい」のメッセージがあるのでクラシックプリンセスが結婚を約束させられて可哀想だとは思ったことはないです。

ウォルトもそこらへんはよく考えてて「白雪姫」の冒頭に王子を登場させ、心の底から王子に惚れさせてます。だから「いつか王子さまが」の独唱シーンは美しいのだと思いますし、キスして目覚めさせるのがあの王子なのです。

 

ディズニープリンセスが抑圧されている点を強いていうなら「キリスト教的な価値観に従わなければいけない点」ですね。

子供への教材として見せるときはさっき書いた「お天道様が見てるから正しく生きなさい」が正解です。「王子と結婚して幸せ」はプリンセス本人の願いに過ぎず、テーマじゃなくてモチーフなので混同しない方が良いと思います。

 

おそらく最近のディズニーはキリスト教的な部分を捨ててますから、逆に恋愛モノとしてのリアリティを追求して、女の子らしさとからしくないとかにこだわってるんだと私は思います。

その目線でクラシックプリンセスを語ると確かにラブストーリーとして説得力にかけて見え、批判が生じてるんだと思います。

あまりクラシックプリンセスを攻撃しないであげてください。

 

今後ともよろしくお願いします。