ディズニープリンセスを線で考える

ディズニープリンセスを過去作品から考えて考察していくのが主です。どっちかというと懐古厨なのかもしれせんが、どのプリンセスもやっぱり好きです。憧れはオーロラ姫です。

バートン版ダンボが公開

ダンボが公開されました。

とは言え、私観ておりません。
今月の6日に観に行く予定なのです。
はやる気持ちを抑えつつ、ウォルト版ダンボを夜な夜な観たり、他のバートン作品を観たりしております。

ダンボがティムバートンによって公開されるという噂はまことしやかに伝えられていまして、去年の年末辺りに公式発表を知ってワクワクしてます。というのもバートン大好きだから。

なんだかダンボってファンタジーランドのキュートなアトラクションのイメージのせいで最初にバートンの映画化を聞いたとき「?」が止まなかったのを覚えてます。でも、よくよく考えたらティムバートンらしいチョイスな気がするんです。すでに公開されたディズニー版ダンボについて話しながらティムバートンがダンボを選んだ理由を考えてみたいと思います。

※ウォルト版だけどダンボのネタバレあるから注意ね!あとティムバートン作品(特にオイスターボーイ、アリス)もいくつか紹介しちゃうからね。

ダンボは正直ハートブレイク作品
あけすけな言葉になってしまいますが、ダンボって「奇形児」の物語なんですね。あの大きな耳はチャームポイントになっていますが劇中では完全に障がい扱い。
そもそもダンボとは「ジャンボ」という母親象の名とDumb(使い物にならない)という意味をもじった意地悪なあだ名です。ノートルダムの鐘で背虫男がカジモド(半分)と呼ばれてるようなものです。日本語訳だと割とマイルドな表現になってるんですが 、原語だとだとわざとらしく他の象が「FREAK(元は怪物という意味なのでしょうがここでは身体障がい者を指します)」のスペルを発してダンボを示唆する意地悪過ぎるシーンも。
タイトルを含め作中では一貫してダンボと呼ばれ続けますが、本名はジャンボ・ジュニアであることは映画の最初でわかるのに、徹底した出来損ない、怪物呼ばわりというなんとも胸が痛むストーリー展開。

ティムバートンのファンタジー❤︎
さて、ティムバートンによる「奇形児」をモチーフにした作品といえば、「オイスターボーイの憂鬱な死」です。これは彼による散文詩とイラストを集め一冊の本にしたもの。本のタイトルはその作品群の一つからですがそれがどれもこれも寓話的に奇形を示唆するものばかり。
機械と母親の不倫によってロボットの身体で生まれた忌み子の話(何言ってるか分からないと思うけど読んで)とか、目がたくさんある女の子の話(ストレートだなァ)とか。
そもそもオイスターボーイとは、頭がオイスター(牡蠣)の男の子。母親がハネムーン中に食べた海産物が原因なのかねぇ……。(明記されてないけど個人的には環境汚染による母子感染の奇形とかかなぁとか思ったり)
この男の子もサムって一応人名がついてるんだけど、両親から「そこの貝みたいなの」と呼ばれたりする。完全にタイトルがネタバレなんだけど、オイスターボーイは両親によって憂鬱な死を遂げるんだよね。かわいそう。
映画と比べると稚拙だし単発で捻りも特に無いけどその分この作品には彼の創作のエッセンスがギュッと詰まってる。彼はどうしてここまで奇形を描くんだろう?

バートン版ダンボはどうなる?
ティムバートンの映画ってね、彼はハリウッドの人だから一応ハッピーエンドにはしてくれるんだけどちょっと釈然としないところを残してくれて好き。
代表作のシザーハンズコープスブライドはちょっとハッピーとは言えないエンド。アリスやチャーリーのチョコレート工場は全体としてはハッピーだけど、赤の女王や他の子供たちのことを考えるとなんかかわいそうなんだよね。何というか、ただの悪役にまでバックボーンを与えるからその人たちのことを考えちゃうし、自分もそうなったらどうしようかなって。(赤の女王の追放シーンは喪黒にドーンされた気分になったなァ……。)
総括して言えることの一つとして群れから疎外されたり、騙されたりする人を描くのが上手い。それが大体の場合、奇形や気質つまり心身のどこかが変わってることが原因であるというのがとてもリアル。変わってるだけでなんでいじめられなきゃいけないんだろ? 変わってる自分って悪役なのかなあ?って声が聞こえてくるような作品が多い。
おそらくティムバートン自身が割とマイノリティな子供だったからというのが大きいんだろうけど、トラウマとトキメキのバランスよく人間心理の暗部に斬り込むのが上手な人だと思う。
今回ダンボに挑戦してもらえた訳だけど、オイスターボーイのように分かりやすくそれでいてファンタジーな身体つきをした小僧のダンボは前々から好きだったのかな?って思ったりした。どう転んでもバートンらしく、ダンボらしくなりそうだなと安心した気持ちで観れそうです。
(蛇足だけど個人的に期待したいのはピンクエレファントのシークエンス。トラウマとして有名なこのシーン、ティムバートンはどこまで「改悪」してくれるかなぁとワクワクします。)

蛇足の蛇足。
最後にダンボに近い作品「フリークス」を紹介して終わります。本邦公開時には「怪物園」という禍々しい和訳をつけられた白黒映画。フリークスは前述の「Freaks」つまり、怪物達。
これはサーカスで見世物として生きる人々が登場します。演者はほぼ身体障がい者
ショックで流産した観客がいたという「本当かよ?」と思うタレコミのあるカルト作品。白黒だしサムネとかあったら深層ウェブっぽい気もしなくはないけども。

安心してください皆さん。怖くないですよ。

「グロ映画を作ろうぜ!」という意気込みがある訳ではなく、ただただ身体障がい者を身体障がい者が演じてるだけ。それがショッキングと言われたらそれまでだけど、ただの人間群像劇。フィクション7割のドキュメンタリー3割みたいな作品。
ダンボと一緒に紹介したのはダンボの世界はファンタジーではないということを紹介したかったので。サーカスに売られて笑い物にされた生き物がたくさんいたのです。そして、人間の体など遺伝子のイタズラに過ぎない。
フリークスの冒頭、日本でいうところの「寄ってらっしゃい見てらっしゃい」みたいな語りからオープニングが始まるんだけど、この語り手が「皆さんもこうなる運命だったかもしれない」って言うところは毎回ドキッとする。

それにしても「芸ができる」彼らをどうして嗤うことができようか。この映画やダンボ、シザーハンズあたりを観ると変わり者を迫害してやいないかと反省したくなる。

宗教観を打ち破った人魚姫

 前回、「クラシックプリンセス」は宗教的な意味合いを持っていたというお話をしましたが、改めて読み返し、それを最初に打ち破ったのはアリエルだったなぁと思いました。

 アリエルの原作は「人魚姫」。アンデルセンの童話です。

 グリムやペローは既存の伝承を文章化しただけですから、「白雪姫」などは大元の作者は不明であり、ディズニーでなくても様々な「ディズニー版シナリオ」の絵本などがあり、大元の童話を知らない方も結構います。

 逆に「リトルマーメイド」の原作はいまでもアンデルセンの「人魚姫」として本屋に売ってますので、その違いを知ってる方は多くなってくるでしょう。


 アンデルセンの人魚姫は最後に泡となり、その後天使となって長い時間を過ごす……というラストですが、これは「宗教的」に仕方がないのです。ウォルトだったら人魚姫をどう改定させていたのか、と気になるところです。現代人だったら気付かないけれど、信心深い人なら「人魚が人間になること」はタブーだからハッピーエンドにするのも気が引けて、ウォルトが人魚姫を元に映画を作らなかったのもそうなのかなとか思いますね。(私の想像です。)



①我々の姿は神から授かったものである

 フランケンシュタインはホラーとして有名だけど、本当は罪深い話で「人間が人間を創造しても良いのか?」というテーマで話が進んでいきます。そのタブーを犯して主人公が転落するのがホラーっちゃホラーなんですけどね。でも科学が進歩してウハウハしてる人間達に警鐘を鳴らしたかったんだろうなと思います。

 人魚姫もホラーにしようと思えば出来る題材で、例えば魔法で人間にするシーンを手術によって変えるみたいな、「妖しく美しいホラー」に改変している映画もあります。

 監督の改変次第で物悲しい化物の奇譚になりかねないのがアンデルセンの「人魚姫」です。


 それは「人魚姫」が創造主、つまり神に背いて、我儘に自分の身体を人間に作り変えてしまう物語だからです。

 単純にアリエルは人間世界の文化に憧れているのですが、人魚姫は人間の身体そのものに憧れ、自分が人間であることを嘆いています。

 つまり、神様が下さった人魚の身体に不満を持つのが人魚姫で、彼女には天罰が下るのです。

  パートオブユアワールドでアリエルは確かに人間の足に憧れているようですが、このシーンは我々人間が「鳥の羽あったら飛べるよねー」程度の願望を表してるに過ぎないのです。

 アースラのところに来てやっと「自分が人間になる」という発想をしていますし、ちょっと悩んで「父や姉に会えない」と言っています。アリエルが人間になりたいという気持ちに背中を押したのはエリックに会いたいという願望です。

 人魚姫も確かに人間の王子に恋をしていたのですが、彼女の場合は常日頃から人間になりたいと願っており、そこにさらに人間に恋をして「姿を造り替えよう」という決心に繋がるのでアリエルとは発想の順序が逆なんです。

 人魚姫は「神の与えてくれた姿」に不満を抱き、さらには「恋愛」という自分のエゴを皮切りに禁断を実行に移してしまうというタブーだらけの童話ともとれます。彼女の最初の代償が結構エグくて、「声」だけじゃなくて「歩くたびに激しい激痛」を伴うという代償もあります。神様がくれた完全な姿でなく、よく分からない呪い師が勝手に作り替えただけなので人間として不完全なのは仕方がないことなのです。


アンデルセン罪と罰

 アンデルセン童話は作者自らの境遇をファンタジーに落とし込んでいるところが多いです。「人魚姫」の場合は人魚姫自身はアンデルセン本人を表している、というのが通説です。

 貧乏だったアンデルセンは上流階級に憧れていました。アンデルセンは海の底で生きる人魚から、陸の上を歩く人間に憧れていたのです。そこには純粋な気持ちだけでなく、富や名声と言った自分のエゴがここまで自分を押し上げてきたという後ろめたい気持ちがあったのでしょう。

 「声」を失ったのは自分の本音、「歩くたびに足が痛む」のは本当の上流階級のように振る舞え無い肩身の狭さから来ているのでしょう。

 ウォルトディズニーが童話を使って夢を語ったのに対して、アンデルセンは童話を使って罪を告白しているのです。

それでも「人魚姫」の原作では彼女は死後、空気の精霊となり永い年月を天使とともに過ごすというハッピーエンドにはなっています。でも彼女の本来の望みは叶っていないし最終的には死んでしまっているわけですから、私たちにはちょっと腑に落ちないエンドですよね。

 そこで宗教的なタブーを全く感じさせない、明るい話に作り変え、自罰的なアンデルセンの物語と180度違う物語にしました。


 ③「リトルマーメイド」の神

 でもリトルマーメイドにも神がいるんです。キリスト教的な厳格なルールで出来た原作ですが、リトルマーメイドにはすこし違う役割を持たされた神が出てきます。

 それはギリシャ神話を彷彿とさせる風貌をしたトリトンです。

 彼は人魚達を統べるという点でそのままの意味で海の神様であります。

 しかし、作品として重要なのはアリエルや姉たちの神的な存在であることです。暖かく包容力のある性格(母性)というより厳格で我々を見守る性格(父性)を持たされたトリトンはアリエルの家庭でも神のような存在です。しかし、アリエルが従わなければならないのは子供の間だけで、大人になりいつかはトリトンの元を離れなければなりません。

 「パートオブユアワールド」の歌詞には


Bright young woman sick of swimming ready to stand


という歌詞があり、和訳では「私は子供じゃないのよ」と割と意味が省かれてしまっていますが、「海で泳ぐのに飽き飽きした若い女は立ち上がる準備ができてる」という直訳(センスがない)ですね。最後のstand ダブルミーニングで、文字通り二本足で立つという意味と自立という意味が含まれているのです。


 トリトンはいつまでも自分が神でいるというつもりでいた(おそらく心のどこかでアリエル自身もそれを認めていた)のですが作中の最後で哀しみつつも人魚のアリエルに美しいドレスと足をプレゼントしたのは重要な意味を持っていたのです。リトルマーメイドにおけるアリエルの足は神が自らアリエルに贈った物です。ですから契約などはなく、無償の愛に満ちた完全な状態で彼女は再び陸地に降り立ち、エリックと結ばれたのです。

 アリエルの強い自立とそれを心から祝福してくれる親という、父娘の物語になったのです。


「やっぱり恋愛で女を幸せにするんかい!」「しかも父ちゃんや王子(男)が活躍しとるやん!」という批判があったそうなんですが、リトルマーメイドの核心はそういうことじゃなくて、「ヴァージンロードを歩く父ちゃんの不思議な感情」見たいなところにあるんじゃないかなぁと大人になって見返すと強く思うんですよねぇ。

 子供の頃は子供の頃で人魚っていう特別感とか、エリックとのデートシーンとか可愛くて観てたんですけど、よく考えるとアースラっていう他人が「真実の愛などない!」って批判した二人をトリトンが無言で受け入れたところとか本当に感動します。

 アリエル(女の子)に焦点を当てて最初は観ると思うんですが、そのあとトリトン(おっちゃん)目線で観ると面白いですよ。

クラシックプリンセス=ウォルトディズニー本人と考えたら初期プリンセスを女性差別と思うのが如何にバカバカしいのかよくわかる

ウォルトが一番好きなシーンを聞かれ「シンデレラのドレスアップ」と答えたのは有名ですが、貧乏イラストレーター時代から今もなお名を轟かせるエンターテイナーになった彼がこう答えたのはなんと納得がいく話でしょうか。

 

 「シンデレラストーリー」といえば玉の輿を詩的表現したものだと思われがちですが、ウォルト自身は男にも女にも訪れるであろう「サクセスストーリー」を描いただけに違いありません。

  元スタッフが「これは善悪の物語だ」と強く語る「眠れる森の美女」。これは彼が生涯をかけて最も心血を注いだと言っても過言ではない作品です。

 何より世界初の長編フルカラーアニメーションは「白雪姫」なのです。

 これほど大事に思われるプリンセスたちが女性差別的だとおもうのは早計です。

 何度女性の私がクラシックプリンセスに憧れたでしょうか。もちろん、今のプリンセスも素晴らしいのですが、クラシックプリンセスには「屈強」な部分があり、軟弱な女性とは思わずむしろ凛としているとすら思える彼女たちを可哀想だと思って欲しくありません。

 少し気になった方は是非目を通してください。

 

 ウォルトが女性差別主義者だったかどうかは分かりませんし、保守的なため、彼自身が男尊女卑の考え方を持っていたのかもしれません。しかし、現在まで愛されるディズニープリンセスが「女性差別」として描かれていたらここまで人気が出ているはずはないです。少なくとも私は何度もクラシック作品を見て「女性差別」だと思ったことはありません。

 

 クラシックプリンセスの基本要素は「夢」と「真実の愛」です。

 ウォルトには「作品が有名になり会社を大きくすること」という俗っぽい夢がありましたが、作品や娯楽に対してちゃんと愛を持っていました。彼は自分が何かを愛する心がやがて大きな夢に繋がるという成功体験を、夢(フロイト心理学的な意味で)のように描くことで、象徴としての「プリンセス」を描きたかったのではないかと思います。

「王子さまとの結婚」はまさに彼の言いたいことを分かりやすく説明します。「人と愛し愛されたい」という気持ちから「その人は王子さまで私は妃になれる」というビッグドリームに繋がった。これが「妃になりたい」だけならちゃっかりした印象を与えるだけですが、人を「愛したい愛されたい」という気持ちをちゃんと歌ったあとに恋に落ちているので、本当に抜け目がないと思います。

 

 白雪姫が初めて劇中で歌ったのは「アイム・ウィッシング」です。ボロをまとった彼女がこう歌うのは、まさに貧乏時代のウォルトの代弁です。「俺の作品を愛してはくれないか」と歌っているのではないかと感じます。(私がディズニーオタクですからそう感じるだけですが)

 

 そもそも、夢見る幸せと恋をしたときのウキウキした楽しい感じはモチーフとして非常に相性が良いと毎度作品を観て思います。70分の映画にするときに観ていて分かりやすくそれでいて力強くテーマが見えやすくなったためプリンセスに結婚させるのはモチーフとしての優秀さに過ぎないのではないかと私は思うのです。

 

 今や作品はディズニーに限らず、ストーリーが重視されます。それも「どう鑑賞者を騙すのか」に重きが置かれているように感じます。

 ウォルトにとってはそれらはあまり重視されません。何故なら「寓話」や「人が見る夢」のようにモチーフを使い、何かを隠しつつ、抽象的だが確実に心に残る映画に仕上げたかったからではないでしょうか。

 そもそも実写ではなくアニメーションで無ければならない映画にはストーリー性やリアリティよりも、むしろ抽象的で簡略化されたものでなくてはならないのではないでしょうか。もちろん、ただ単に簡略化されただけではつまらないでしょうから、記号化を上手にすることによって人の心に残るのでしょう。

 クラシックプリンセスとは夢と愛の記号化なのです。ストーリーとしての映画を観ることしか知らない私たちには彼女たちが普通の女にしか見えないのですが、彼女たちは夢と愛そのものなのです。夢と愛を上品で優しい女性キャラクターにしたのはアニメ的に成功していると私は思います。

 

 私は夢と愛が詰まった彼女たちの優しさが好きですし、ウォルトが伝えたかったことを優しいプリンセスとして残したのは女性差別なのでしょうか。

 

 「上品で優しい女性をモチーフにしたことが女性差別だ」とか言う人がいそうですが、モチーフの話をしだすと「なんで鳩は平和の象徴なの?」とか「禁断の果実は何故リンゴなのか?」とキリがないですよね。観ていて違和感がないしむしろ何故か説得力すら感じるからとしか私は答えようがありません。

クラシックプリンセスは抑圧されていたのか?

幼少期は「白雪姫・シンデレラ・オーロラ・アリエル・ジャスミン・ベル」の六人がディズニープリンセスという風潮の元、育ってきました。

 

最近になって新しいプリンセスはもちろん、「ポカホンタスやムーランもプリンセスなのか……」と、どんどん増え続けるディズニープリンセスに研究分野を広げねばならないと思うオタクです。(たまにアリスも入ってるけど、プリンセスじゃないじゃん!逆にエロウィーとかももっと掘り下げないと、とかディズニープリンセスの基準が広がってて戸惑いを隠せません。 )

 

さて、ウォルト本人が生きていた頃の作品はディズニークラシックと呼ばれます。そこで、私は白雪姫、シンデレラ、オーロラの三人を「クラシックプリンセス」と呼んでいます。この呼称が一般的なのかどうか分かりませんが、分類分けすると分かりやすいですからね。

このクラシックプリンセス、最近では割と評価が低くなってると言いますか、タイトルにもあるように「抑圧されてる」とか「自我のない存在」と見なされて、「悪しき男尊女卑時代の女性像」として扱われることもしばしばあるんですね。

そこまで深読みされることはなくても「こんな女いねーよ!」と揶揄されること、そんなパロディとかギャグくらいだったら皆さんも見たことあるのではないでしょうか。

ファンとしては本当に彼女達は抑圧されてたのかなと思う部分があります。同じ女としてはクラシックプリンセスの方が憧れる部分も多く、必ずしも「男尊女卑の弊害」だとは思わないのでちょっと考えてみたいです。

 

ヴィランズの存在意義

ディズニープリンセスヴィランズは基本女性です。特に深い理由は無く、童話の原作が割と「魔女に呪われたプリンセス」率が高いからでしょうね。

「アラジン」や「美女と野獣」などプリンセス以外に主人公(美女と野獣は野獣が変わるため、制作的には野獣が主人公)がいると男もヴィランズになりがちですが、女性ヴィランズの方が多いです。最近のも含めるとバランスが崩れつつあるかもしれないけど。

クラシックプリンセスのヴィランズは継母、トレメイン夫人、マレフィセントです。

彼女達とプリンセスを比べてみましょう。

 

白雪姫 疑うことを知らない。無邪気なので皆から愛される。

継母 自分がどう見られているのか気になる。皆から恐れられる。自分自身も疑心暗鬼な部分がある。

 

シンデレラ 曲がったことが嫌い。権力に歯向かうこともある。そのため、クラシック以外の全てのプリンセスと比べても実は性格はキツいと評価されることもある。

トレメイン夫人 権力を振りかざし、それが非人道的でも自分の思惑通りにならなければ気が済まない。

 

オーロラ姫 美しさの象徴のようなニンフ的存在。妖精の祝福により、生まれつき皆から愛される。

マレフィセント 全ての悪の支配者。つまり悪事を働くことしかしないので憎まれる。

 

安易に「女の敵は女」に落とし込まず、クラシックプリンセスは基本的に「聖女と悪女」の戦いです。

ウォルト的にはディズニーは道徳的要素が入っている作品であることがこだわりの一つで、比較しやすい方が良いんですね。特にディズニープリンセスは清廉なキャラクターに仕立て、道徳的な話に持ってきた方が話のテーマが分かりやすいんです。

実はクラシックプリンセスは恋愛モノというよりも道徳のお話なんです。

 

善悪の勝負

「理想の女」というよりもはや「人間として出来過ぎてる」のがクラシックプリンセスです。

 

「女の戦い」とか「キャットファイト」にしないために「圧倒的心の純粋さ」対「圧倒的腐った性根」の構図になってるのがクラシックディズニーです。

男とか女とかそういう問題じゃ無くてもはやプリンセスという生き物なんです。

 

クラシック時代の作品は道徳観とかキリスト教的な善悪の物の見方が関わっくると思います。

キリスト教は赦しの宗教とも呼ばれ、あまり復讐とか好まないんですよね。罪を憎んで人を憎まずというやつです。

 

ヴィランズがどうなるのかと照らし合わせると

継母は自滅する。落雷という天罰が下った為、復讐による死ではない。

トレメイン夫人はお咎めなし。

マレフィセントは人間や生き物では無く、悪の擬人化。これは逆に倒さないといけないためフィリップに成敗される。

……と宗教的になってますね。ほぼ死んでますけど。

 

良き魂が悪しき魂を憎まず、悪は自滅する、みたいな話に運ばないと子供に見せられない……とウォルトがどの位思ってたかどうか分かりませんがプリンセスに関してはこの部分にかなり拘ってますね。

だからクラシックプリンセスの物語が予定調和に進んでいくのは、「女だから」というよりも神の思し召しによる部分が強く、自分の気高さ故に運命が変わるみたいな宗教的な意味合いが強いんです。

つまり「お天道様が見てるから正しく生きなさい」というメッセージです。

女だから動いてないとかじゃなくて、動じる必要がないんです。だってクラシックプリンセスは本当の意味で美しいから。

ジェンダー的な問題で「男の理想の女性像」を押し付けられた典型としてクラシックプリンセスを例にあげるのは若干違うんじゃないかなーと思います。そもそも男の恋愛対象としてではなく「正しい人間」として描いてますからね。

 

それでも抑圧されてると思うところ
最後に抑圧されてると書かざるを得ない所を書いておきます。

① もはや修道女的に善なる存在にならなきゃならない

② 彼女達の幸せは王子との結婚という固定観念

 

これですかね、①に関してはクラシックプリンセスになるための資格です。特に熱心な宗教徒でない限り現代の我々には難しい所です。ちょっと息苦しいですね。

あとは②ですかね。プリンセス作品の主な顧客は「小さい男の子と全年齢の女性」をターゲットにしています。小さい子供に対して「善悪」の価値観を持たせる作品として非常に素晴らしいと思いますが、全年齢の女性に向けて「女は結婚させときゃ幸せでしょ」というパターンにしちゃったのは安直かなぁと思わざるを得ないでしょう。

ただし、今だって結婚したい女の人もいるし、劇中のクラシックプリンセスは結婚してちゃんと幸せそうだし、ここに関してはこれからのディズニープリンセスがこの価値観を押し付けなければそんなでもないかなと思います。

そもそも言うほど「結婚が正義」という押し付けを感じませんし、その前に「自由恋愛は楽しい」のメッセージがあるのでクラシックプリンセスが結婚を約束させられて可哀想だとは思ったことはないです。

ウォルトもそこらへんはよく考えてて「白雪姫」の冒頭に王子を登場させ、心の底から王子に惚れさせてます。だから「いつか王子さまが」の独唱シーンは美しいのだと思いますし、キスして目覚めさせるのがあの王子なのです。

 

ディズニープリンセスが抑圧されている点を強いていうなら「キリスト教的な価値観に従わなければいけない点」ですね。

子供への教材として見せるときはさっき書いた「お天道様が見てるから正しく生きなさい」が正解です。「王子と結婚して幸せ」はプリンセス本人の願いに過ぎず、テーマじゃなくてモチーフなので混同しない方が良いと思います。

 

おそらく最近のディズニーはキリスト教的な部分を捨ててますから、逆に恋愛モノとしてのリアリティを追求して、女の子らしさとからしくないとかにこだわってるんだと私は思います。

その目線でクラシックプリンセスを語ると確かにラブストーリーとして説得力にかけて見え、批判が生じてるんだと思います。

あまりクラシックプリンセスを攻撃しないであげてください。

 

今後ともよろしくお願いします。

アナ雪は男性を否定してないよ

一ディズニーオタクとしての意見ですが、ジェンダー的な見方でアナ雪を解釈しようとしてる人をちらほら見かけます。それ自体はいいんですが、どうも捻くれてるなって気がするんですよ。

穿った男性目線では「男なんかどうせ要らないんだろ……」と。

穿った女性目線では「ほら観て! 男なんかなくても私たちは幸せなのよ!」と。


本当に憤慨してます。

「初のダブルプリンセス」として注目の的になった本作に対して変な反応を示しているのでは? と思う方々がいるので、ファンとして反論させてください。

ディズニーオタクの自分からするとアナ雪の凄さは「男を排除した」ではないんですよ。

「プリンセスが結婚を蹴った」ところなんですよ。

 男性のクリストフも活躍し、友達以上恋人未満にまで行ってたわけじゃないですか。女から見たクリストフはイケメンだと思います。内面もプリンスの中だと良い方だと思います。

ナディーンとかフリンとかハンスみたいな割とダメンズが続いた中で久しぶりにイケメンキャラが来たな……と思いました。

「男が要らない」が伝えたいことだったらこのタイミングで、マトモな男性キャラを投入しなかったはずですよ。

彼はあくまで結婚に到達しなかったってだけなんですよ。


本作の凄さはディズニーの伝統であった「プリンセスとプリンスの結婚」を選択しなかったのです。ディズニーとしては凄く珍しいけど、今の世の中って全ての男女が結婚するわけじゃないし、結婚しなかったとしてもそれは不幸せね……って言う考えを覆したかったんじゃないかなと思います。

「男性は要らない」だったらむしろハンスだけでよかったのではないでしょうか。

わざわざクリストフと言う好青年を登場させたのは、従来ならば選択されるべきプリンスキャラをアナが選ばないと言う展開を持ってこないと「結婚をゴールと考える固定観念」を壊すことができなかったんだと思うんです。


「白雪姫」から始まったディズニープリンスの童話は初期の作品だと「シンデレラ」「眠れる森の美女」などのプリンスに一目惚れをさせる、自分を選ばせると言う受動的な存在でした。

さらに「リトルマーメイド」ではむしろアリエルが王子に見初め自分から動くという能動的なプリンセス像を完成させました。

そして「美女と野獣」では二人の男に言い寄られるベルが自分の意思で野獣の優しさを見抜き、王子を選んだのです。

近年のプリンセスは王子と対話、ときには喧嘩をすることで自分の理想とする恋愛を選択できるようになりました。

しかし、アナ雪では「選択しない」ということをしました。

ディズニーオタクの自分は最初、この作品を受け入れられませんでした。長らく続いた作品が否定された気がしました。

しかし、時代が変わっていくし、そもそも「プリンセスは結婚するもの」という固定観念が間違っていたのだと気付けました。

「アナはしなかった」ただそれだけのことで他のプリンセスが結婚をして幸せになったのを本作は否定していません。

エルサやクリストフはハンスと結婚しようとするアナを揶揄するのは「たった一回会った相手」という部分に引っかかりがあるからです。

(そう考えるとリトルマーメイド以前の作品は若干揶揄されているところがありますが「魔法にかけられて」が既にやってます。ただし「魔法に~」ではプリンセスの結婚で終わり、「真実の愛」自体は肯定してます。)


本作は「美女と野獣」「魔法にかけられて」「プリンスと魔法のキス」「塔の上のラプンツェル」発表後の作品であり、「ちゃんと王子の性格を知った上で結婚しなければならない」という比較的新しいプリンセスの宿命がアナやエルサにはありました。

ハンスが失敗例なのはその新ルールから違反しているからです。

そして本作より前には「メリダとおそろしの森」という作品がありましたが、これが新しく執行されたルールで「そもそもプリンセスは結婚しなくても良いのだ」というものです。前作「メリダ」の知名度が少ないのでインパクトもなかったのかもしれませんが、結婚がないプリンセスっていたって実は良いことになったんです。

メリダではそもそもプリンスが登場しません。逆にアナ雪でクリストフがプリンス風な立場になった途端「男を当て馬にしてる」という一部捻くれた方々がいますが、ディズニーの意図は「要らない男性」ではなく、「結婚を選ばない女性」に過ぎないのです。だからクリストフにも褒美が与えられてるし、彼は仕事好きそうだしアナに好意はあるけど、劇中で結ばれなきゃいけない!という焦りがないだけじゃないのと思ってしまいます。


アナとエルサが姉妹というのは凄い絶妙な設定だと思います。「真実の愛」を結婚以外で考えたとき非常に重い感情が家族への愛なのは自然な結論だと思います。

プリンセスの平均年齢は所感ですが16~18位だと思います。アナとエルサも同じくらいでしょう。

そのくらいの女の子が「私、結婚しない! お姉ちゃんと一緒にいる!」って強い気持ち持っていてもおかしくはないし、そういう幸せだってあるってただそれだけの話なんですよね。


あと女性の中に「王子さまを待つなんて本当に馬鹿すぎると思ってたのよ! アナ雪良くやった!」みたいな意見もチラホラ見ます。

 「アナ雪良くやった!」は同意なんですが、だから過去作品否定するってそもそも「ディズニープリンセス嫌いだったんだなぁ」と、思います。個人的にそんな女性とは仲良くなれそうにないですね。


https://m.youtube.com/watch?v=CtyOC6ayKoU

このファンアートと言いますか、正直不味いです。素人っぽさというか品が悪いです。

ただエルサが他のプリンセスに文句を言ってるだけじゃないですか。

公式の「魔法でかけられて」のディスり方と比較してしまうとやはりボロが出てしまって見てられません。

これって「結婚したくてもできなかった女性が結婚したい女の子に意地悪してる」図にしか見えません。「真実の愛など無い!」って言ってるマレフィセントかアースラですよ。これは。

違うでしょう。エルサもアナも「結婚を選ばないのが己の幸せ」に帰結しただけです。しかし、他のプリンセスにとっては王子と結婚する夢を追いかけるのが幸せなんですよ。

それを「男なんて要らないのよ」なんて言ってるのみると呆れて物も言えません。自分の価値観を押し付けているだけです。

ありのままの姿になった人間はマウント取りません。安易にレリゴーしないでほしい。


ディズニー作品の根底は「夢は諦めなければきっと叶う」です。

「白雪姫」の「いつか王子さまが」

「シンデレラ」の「夢はひそかに」

「眠れる森の美女」の「いつか夢で」

など夢見るプリンセスとともに幸せに浸るのがディズニープリンセスの醍醐味です。

2期黄金期では脈々と受け継がれてきましたが徐々に「夢は叶わないかもしれないけれど、伴うように努力しよう。他の夢が見られるかもしれない」というちょっとシビアなものも見られました。

魔法にかけられて」や「プリンセスと魔法のキス」が顕著です。但し、「夢を見ること」そのものを否定していません。「魔法にかけられて」では夢を見ることを忘れたニューヨークの人間が夢や愛を取り戻していくという「ディズニーの本質」は否定せず、クラシックプリンセスをディスった実に痛快なパロディ作品です。


「王子さまだけが幸せじゃない」のはアナ雪のメッセージ通りでしたが、行き過ぎて「さあ女の子達! 王子さまなんか要らないのよ! 旦那に言ってやんなさい!」っておかしくないですか?

「結婚しなきゃいけない価値観を押し付けないで!」と言っていた層が「結婚なんてクソ!」って言う価値観を押し付けてしまってるという地獄絵図。

結婚しない女性がウエディングドレスを着て喜んでる女性に喚いてる図じゃないですか。

エヴィルクイーンですらこんなみっともない姿見せてませんよ。


43万いいねされてますが、個人的にびっくりです。歌も上手い、コスプレも上手。でも「ディズニープリンセス」への愛を感じないんです。この作品は。アナ雪のことは大好きなのかもしれませんが、旧作下げして、本作上げしているだけで本質を分かってないのです。このエルサには一生引きこもって頂きたい。



なんども言いますが、「アナ雪」は選択肢を広げてくれた作品です。私が一番言いたいのはこれです。

なんと言うか、最近のディズニーにすら少し辟易しちゃうのは「女の子らしい女の子はあざとい。男勝りな女の子こそ凄い!」という空気を感じてしまうことです。

いやいや、少し前の「男勝りな女の子ははしたない。女の子らしい女の子であれ!」と逆になっただけで進歩してないぞ!と思うんです。「女の子らしい女の子も男勝りな女の子もいるわ! 皆が幸せになるべきよ!」じゃダメなの!? これじゃあ多様性っていうより、ステレオタイプをぶっ壊したいだけじゃないか! というがっかり感がすごいんです。それは作品だけじゃなくておそらく鑑賞者側にもいて、今回のようにチラホラいた屁理屈言ってたみたいなのがそういう層だったんだと思います。

とりあえずアナ雪に関しては「結婚しませんよー」というたかが一つの選択に、「男は必要とされないんだー!」とか「そうよ! 男なんか要らないわ!」とか騒いでるのが悲しくて。結婚をしても良いししなくても良いという多様性に気づいてほしいなと思いました。


「価値観なんかいっぱいありますよ!プリンセス一人結婚しなかっただけでどうしたって言うんです? 皆落ち着いて!」ということです。